フェイスブックで、ある企業家の方が、この記事について投稿をされていた。ライフネット生命の出口さんの記事だ。その投稿をされた方も、日本の若者の保守的な傾向をとても心配されていたが、確かに心配になる。
「就職人気トップ10はすべて銀行・保険 これでこの国は成長するのだろうか」
3月1日から就職説明会が解禁され、ツイッターでは学生がリクナビに登録したり、合同説明会に出かけるなどのつぶやきがたくさん見られる。
そんなタイミングに合わせて書かれたこの記事には、日本の学生の就職先人気企業が銀行や保険会社などの安定志向であることの問題が指摘されている。
私がそれに対してコメントしたのは、日本の若者は先進国の中で最も自信がないということ、そして、その点から見ると、この記事に書かれている結果になるのは当然だろうということ、そして、もっと言うならば、多くの学生は卒業後は特に何もしたくないし、また、自分には何もできないと思っている(自己効力感が低い)。事実、多くの学生は、生活をしていくために仕方なく働かざるをえないと思っており、就職活動は苦痛だと感じている。就職活動のあり方にもそのストレスは起因するが、その点については別な機会に述べるとして、学生の自信のなさ、無力感は多くの大人が想像しているよりも、遥かに深刻であると日々感じている。
私の職場の大学では、毎年新入生が入ってくると簡単な懇親会のようなものを実施している。そこで新入生に大学ではどんなことをしたいかと聞くと、殆どすべての学生が「友達を作りたい」と言う。これはどういうことを意味しているのだろうか。私の解釈はこうである。
多くの学生は、自分がひとりでは価値がある人間だと思っていない。自信のなさはこういうところにも現れる。そして自分一人でなんとかできるとも思わない。そのため「友達」に依存することで、なんとか無力で無能な自分が生きていけると思っている。
だが、その「友達」とはどういう存在かといえば、嫌われない、ひとりにならないための存在であり、それはある意味で常に相手の顔色を伺いつづけ、「友達」に迎合していくことを意味する。そうなると、例えばサークルなどの集団で、様々な問題が発生した場合(例えばワガママなメンバーがいい加減なことをした時や、ゼミのグループワークで連絡を返してこない学生がいた時など)も、嫌われたくない気持ちが先行し、誰もその問題に対処せず、ただその問題が通りすぎるのを待つのみ、という現象が起きてくる。これは深刻な問題である。
私もゼミをやっていて、こうした問題が起きるたびに、無責任だと思っていたが、その根幹には、「自分が問題に取り組むことができる」という自信が皆無であることが原因として存在していることに比較的最近になって気がついた。
今の学生には「ライバル」という存在を持っている学生がとても少ない。ライバルは存在せず、ただひたすらに「友達」や「仲間」が存在するのである。ライバルは「あいつにできるんだから自分にもできる」という自信(自分の座標での位置のようなもの)を持つことに繋がるためとても大事である。だが、敗北したらどうしたらよいのかわからない若者たちは、競争を避け、お互いに干渉しあわない「友達」の中に安住し続ける。結果、自分が一体何ものなのかを知る機会を持たず、自信どころかアイデンティティも育てることができなくなってしまっている。
好むと好まざるとにかかわらず、こうした若者たちとこれからの企業や組織は仕事をしていかなければならない。そのことに真剣に向き合うべき時が今来ているのだ。
私は今の学生たちはとても優しくて素直で好きである。ただ、彼らがどうやって必要以上に傷つかないで、自分という存在を肯定して生きていけるのか、そのためにどう接するべきなのかいつも悩んでいる。
まず何よりもやらなければならないことは、大人の眼から見て足りないことを指摘することではなく、その人自身の肯定である。口先だけでなく、本当にその学生を肯定できるかどうか、それが大事だと思っている。多くの学生から毎日のように相談を受けるが、忙しい合間でも可能な限りそうしたことに向き合い、彼らがあるがままでよいことを肯定し、その上で乗り越えるべき課題に向き合う方法に一緒に頭を悩ます。そしてその課題を乗り越えたことをしっかりと見て、評価する。乗り越えられない時はまた相談に乗る。
そういうことを地道に繰り返していくしかないと思っている。そうやって少しずつ自分が何者であるかを知っていくことが、自信と呼ばれるものにつながっていくのではないだろうか。
問われているのは、若者の在り方と同時に、まわりの大人たちが若者にどう接するのかということではないだろうか。
「就職人気トップ10はすべて銀行・保険 これでこの国は成長するのだろうか」
3月1日から就職説明会が解禁され、ツイッターでは学生がリクナビに登録したり、合同説明会に出かけるなどのつぶやきがたくさん見られる。
そんなタイミングに合わせて書かれたこの記事には、日本の学生の就職先人気企業が銀行や保険会社などの安定志向であることの問題が指摘されている。
私がそれに対してコメントしたのは、日本の若者は先進国の中で最も自信がないということ、そして、その点から見ると、この記事に書かれている結果になるのは当然だろうということ、そして、もっと言うならば、多くの学生は卒業後は特に何もしたくないし、また、自分には何もできないと思っている(自己効力感が低い)。事実、多くの学生は、生活をしていくために仕方なく働かざるをえないと思っており、就職活動は苦痛だと感じている。就職活動のあり方にもそのストレスは起因するが、その点については別な機会に述べるとして、学生の自信のなさ、無力感は多くの大人が想像しているよりも、遥かに深刻であると日々感じている。
私の職場の大学では、毎年新入生が入ってくると簡単な懇親会のようなものを実施している。そこで新入生に大学ではどんなことをしたいかと聞くと、殆どすべての学生が「友達を作りたい」と言う。これはどういうことを意味しているのだろうか。私の解釈はこうである。
多くの学生は、自分がひとりでは価値がある人間だと思っていない。自信のなさはこういうところにも現れる。そして自分一人でなんとかできるとも思わない。そのため「友達」に依存することで、なんとか無力で無能な自分が生きていけると思っている。
だが、その「友達」とはどういう存在かといえば、嫌われない、ひとりにならないための存在であり、それはある意味で常に相手の顔色を伺いつづけ、「友達」に迎合していくことを意味する。そうなると、例えばサークルなどの集団で、様々な問題が発生した場合(例えばワガママなメンバーがいい加減なことをした時や、ゼミのグループワークで連絡を返してこない学生がいた時など)も、嫌われたくない気持ちが先行し、誰もその問題に対処せず、ただその問題が通りすぎるのを待つのみ、という現象が起きてくる。これは深刻な問題である。
私もゼミをやっていて、こうした問題が起きるたびに、無責任だと思っていたが、その根幹には、「自分が問題に取り組むことができる」という自信が皆無であることが原因として存在していることに比較的最近になって気がついた。
今の学生には「ライバル」という存在を持っている学生がとても少ない。ライバルは存在せず、ただひたすらに「友達」や「仲間」が存在するのである。ライバルは「あいつにできるんだから自分にもできる」という自信(自分の座標での位置のようなもの)を持つことに繋がるためとても大事である。だが、敗北したらどうしたらよいのかわからない若者たちは、競争を避け、お互いに干渉しあわない「友達」の中に安住し続ける。結果、自分が一体何ものなのかを知る機会を持たず、自信どころかアイデンティティも育てることができなくなってしまっている。
好むと好まざるとにかかわらず、こうした若者たちとこれからの企業や組織は仕事をしていかなければならない。そのことに真剣に向き合うべき時が今来ているのだ。
私は今の学生たちはとても優しくて素直で好きである。ただ、彼らがどうやって必要以上に傷つかないで、自分という存在を肯定して生きていけるのか、そのためにどう接するべきなのかいつも悩んでいる。
まず何よりもやらなければならないことは、大人の眼から見て足りないことを指摘することではなく、その人自身の肯定である。口先だけでなく、本当にその学生を肯定できるかどうか、それが大事だと思っている。多くの学生から毎日のように相談を受けるが、忙しい合間でも可能な限りそうしたことに向き合い、彼らがあるがままでよいことを肯定し、その上で乗り越えるべき課題に向き合う方法に一緒に頭を悩ます。そしてその課題を乗り越えたことをしっかりと見て、評価する。乗り越えられない時はまた相談に乗る。
そういうことを地道に繰り返していくしかないと思っている。そうやって少しずつ自分が何者であるかを知っていくことが、自信と呼ばれるものにつながっていくのではないだろうか。
問われているのは、若者の在り方と同時に、まわりの大人たちが若者にどう接するのかということではないだろうか。
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