依存症とナラティヴと組織。

少し前になるが、薬物依存を繰り返してきた元タレントの田代まさしさんが、荻上チキSession-22にDARCでも活動されている上岡さんと出演して、薬物依存について語っていた。
これは非常に興味深い内容で、音声も配信されているので、お時間があれば是非お聴きいただければと思う。


薬物依存というものが、いかにして生じるのか、そして、それを単なる犯罪(つまり、個人の意志の問題)として扱うことが、いかに薬物依存からの回復を妨げているのか、ということが語られている。
興味深い点は、薬物依存は関係性によって生じることが見えてくるところにある。

田代まさしが薬物に最初に手を出したのは、仕事が最も忙しく売れまくっている時だった。
毎日何本ものテレビ収録を抱え、小道具を使いながら面白おかしい演出をすることで売れていたのだが、毎回そのネタを考えなければならないプレッシャーにさらされていた。そんな時に、アシスタント・ディレクターから覚醒剤を教えられる。そして、一度だけならと手を出したら、やめられなくなってしまったそうだ。
そして逮捕と釈放を繰り返すことになった。
薬物依存に関する教育も勿論刑務所で受けた。出所してから後、彼は薬物依存に関する講演活動をしていたが、彼は一人で薬物依存と戦っていた。そんな中、講演が終わったあとの握手会で、「お気持ちお察しします」と差し出された手の中に、覚せい剤と売人の電話番号が書かれた紙が入っていたという。そして、再び薬物に手を出してしまったこともあったそうだ。
最初は自分の力で回復できる、そのための強い意志が大事だと考えていたが、結果的にはそれが全く歯が立たなかった。これは、当人の意志の問題と考えるのが妥当なのだろうか。恐らくそうではない。

上岡さんの支援する女性の薬物・アルコール依存者の方のかなりの比率の方は、DVを受けているという。つまり、DVの痛み、苦しみという問題を解決するために、薬物やアルコールに手を出すのである。そして、そうした薬物やアルコールで起きる問題を解決する(認識できなくする)ために、ますます依存を深めていくのであろう。

つまり、依存症とは問題解決行動として発生するのである。従って、問題解決行動を生み出している問題を生み出す問題、先の例で言うならば、DVであり、田代まさしの例で言うならば、強いプレッシャーに孤独に向き合う苦労に向き合うこと、これによって、問題解決行動としての依存症が、「必要なくなる」ようにすることが大事なのであろう。これを問題解消problem dis-solvingと呼びたい。
(元々この言葉は、Anderson and Goolishian(1988)の用語であり、この言葉にはもう一段深い意味が込められているのだが、ここではひとまずは便宜的に用いたい。)

では、なぜ問題解消が難しいのだろうか。それは、苦労を語る場がないからである。田代まさしが再使用を繰り返してしまった背景には、自分の強い意志で解決する、つまり、孤独にその問題に向き合うことで解決しなければならないという、考え方があるのが伺える。だから、DARCのようなコミュニティは頼らなかった。
しかし、その結果、彼が苦労を語れない苦しみを抱えたままであったことに目を向けたい。彼が復帰した際には、元・犯罪者として扱われ、好奇の目に晒される中でなんとかそれを乗り越えなければならないプレッシャーがかかっていた。この苦労を語ることができず、そのプレッシャーへの解決行動として仕事への没頭をしようとした際に、再び薬物に手を出したのである。
同番組の中では、「更生」という問題を個別化した考え方が遠因にあることが語られている。彼の依存症が孤独を解決するための行動であったとするならば、孤独、つまり、彼の抱えている苦しみ(プレッシャーの中でどうすることも出来ない無力さ)を語ることによって、彼はその苦労に向き合うことが可能になるのである。その語る場として、同じ苦労を生きる人々によるコミュニティが必要になってくるのであろう。
薬物依存に限らず、私たちの人生の苦労は誰も代わってあげることはできないし、代わってもらうこともできない。だが、だからこそ人生には意味があるはずだ。そして、その苦労を代わりに引き受けることはできずとも、その人が苦労を取り戻す手助けは出来るはずである。それが支援者の仕事なのであろう。同時に、支援者もクライアントの苦労を取り戻す支援の苦労を語れることも大切である。その支援者の苦労が語れるようになった時こそが、もしかすると支援という問題解決を超える瞬間だからである。

さて、これは薬物依存のことを書いている。だが、苦しみ痛みの性質は全く違うであろうが、この人間社会は依存症に満ちているように思う。
私は経営学研究者として、色々な企業の話を伺う。その時に感じる少し引っかかる言葉は、どうやったら目の前のこの問題を解決できるのか、という問題解決志向の言葉である。そして、そうしたことを語る人々は、どういう理論があるか、どんなツールがあるか、どんな施策があるか、と、いつも解決策を探している。だが、それはもしかすると、問題解決依存症なのかもしれない。その人の苦労は、本当は問題があることではないのかもしれない。そうではなく、その問題に対してどうしたらいいかわからない無力さを語れない孤独なのかもしれない。
だとするならば、研究者の仕事、あるいは、コンサルタントの仕事、そして、なによりも第一には組織の人々の仕事は、この無力さを語れるようになる手助けをすることではないのだろうか。その時に、きっと、今までとは違う視点で物事が見えてくる。それは理論的に言えば、関係性/物語が変わるから、と言うことができるが、別にそれが本質なのではない。大事なことは、私たち人間社会で最も憎むべきは、私や他者の孤独なのだということだ。

孤独な社会を、孤独な組織を変えていくこと、それは大きなことのように思えるが、実は出来ることがある。まずは自分の孤独さ、無力さを語ること。そのことによって、今までとは違う関係性が、語られた相手との間に芽生えるかもしれない。その希望をもって、小さく、とても儚く、だけれども、世界をわずかながらも確実に変える実践に、向き合えたならばと思うのだ。


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