斉藤道雄『悩む力ーべてるの家の人々ー』みすず書房を読みました

少し前の話になるが、6月の頭に勤務先の大学(ミッション・スクール)で、キリスト教フォーカスウィークがあり、その講師として北海道の浦河べてるの家で活動をされている向谷地生良さんが当事者の亀井さんと一緒にお越しになった。

べてるの家とは、主に統合失調症を中心とする精神疾患を持つ人達のコミュニティである。「当事者研究」と呼ぶ独自の統合失調症の症状への取り組みで大きな注目を集め、何冊も本が出版されたり映像が作られたりしている。また、彼らが展開している物産などを中心にしたビジネスも大きく広がりを見せてもいる。
と、これだけを聴くと、「ふーん、そういう人たちがいるんだ」くらいに感じられる方もきっと多いと思うのだが、彼らが実践していることは、明確に今の社会に対して重大なメッセージを持っている。
それは、「病むことは決してマイナスばかりではない。病むことは力であり、病むことによって我々は今まで気づくことのできなかった現実を創造することができるようになる」ということだ。

フォーカスウィークでは向谷地さんの講話に加えて、懇談会や昼食会でもお話をする機会があり、べてるの家の思想と実践についてお話を伺うチャンスを得ることができ、非常に勉強になった。そこでのお話をここに書きつくすことは出来ないが、べてるの家の取り組みを知る上で有用な斉藤道雄さんの書いた『悩む力―べてるの家の人々―』(みすず書房)という本を簡単にご紹介したい。

この本はべてるの家がどのように形成されたのか、どのような苦難を経験したのか、べてるの家に集う人々はどのような人々でどのように日々を過ごしているのか、そして、当事者研究という独自の実践がどのように展開されているのか、などが書かれている。コンパクトながら、べてるの家の内容を非常によくまとめてくれていて、その歴史と実践を知る上で大変に参考になる。

この本を読むと、べてるの家の実践は極めて一貫していることがわかる。それは、様々な問題を避けたり、なきものにしようとせず、それと正面から向き合い、そこから可能性を発見することである。よく出てくるのは、「べてるの家は問題だらけ、それで順調」という言葉である。
例えば、この本に出てくるエピソードの一つに、収入を得るためにやっていた昆布の内職から販売へと転換するエピソードである。べてるにいる人々が、ほそぼそと内職でやっていた昆布の袋詰作業が、症状がもたらした行き違いによって継続できなくなってしまった。せっかくお金を得る術として軌道に乗ってきたのに、それがもうできない。想像するに、本当にもうお先真っ暗だったと思う。
この立ち直れないほどの深手を負った中で、ふと「じゃあ自分たちで売るしかないか」と自分たちで販売をすることを決意する。すると、障碍があることに動かされた地元の漁業者の人々も協力してくれることになり、結果的に上手く行ってしまった。もし、彼らが全く「普通」の人で、問題なく内職を続けられていたら、果たして現在のべてるの家の物産販売のビジネスはできていただろうか。
そう考えてみると、確かにショートスパンで見ればものすごくネガティヴな出来事であっても、それは今までの現実が崩壊し、新しい現実の生成の場面に立ち会っていると見ることも出来る。だとすると、病むことは、そうした新しい現実を生成する上で重要な力にもなりうるのである。

しかし、日本は向精神薬の使用量が恐らく世界でもトップであり(使用量が多いのはベンゾジアゼピン系の抗不安薬)、精神科ベッド数はダントツで多い。この背景として、向谷地さんは、精神疾患という問題を社会から排除し、なきものにして行こうとする社会の価値観の存在を指摘する。
つまり、日本の社会では、この「病む」ことを「直すべき疾患・排除すべき障害」としてきたのであろう。
見回してみれば、日本は世界でも自殺率はかなり高く、また、イノベーションの力も失われている。これらはどうもつながっている問題のように見えてならない。
つまり、多くの人は自らの心の病いや悩みを悪しきものとして口を閉ざし抱え込んでいるのではないだろうか。そして、人とは違うことに気がつくために必要な力(それは時として病いとして表現される)は表出されないので、イノベーションも生じないのだろう。
そのように考えると、べてるの家の実践は、閉塞感のある日本の社会に重大な問いかけを提示してくれている。
さて、組織の中でこれをどうやって実現できるか。組織を研究する人間にとって、重いミッションが与えられた。

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