ワールドカップを見ながらテレビの大事さを感じる

ブラジル・ワールドカップが開幕し、幸いサバティカル中なので毎日観ることができてしまうため、そこそこテレビで観ている。

しかし、最近ではテレビを家に持たない学生が増えているのを感じる。
まあこれ自体は様々な事情で仕方のないことでもある。だが、こうした時に改めて考えてみると、テレビというメディアは大事ではないかと思うのである。

テレビの何が大事かというと、インターネットでは入ってきにくい情報が(受動的に)入ってくるということだ。
例えば、今回のワールドカップ開催までに起きた抗議デモの様子や、こうしたことに関連したブラジル社会の現状を教えてくれる良質な海外ドキュメンタリーなどが、BSでは流されていた。これらは非常に興味深かった。勿論インターネットでもこれらの情報は得られるが、しかし、能動的に見なければ見過ごしてしまうかもしれない。
また、試合を観ていたら、中国企業の英利(YINGLI SOLAR)がバナースポンサーとして出ていることもわかる。またFIFAは"Say no to racism"というバナーを掲示している。南ア大会では見られなかったはずだ。
しかしこれらの情報は、別に自分が見たいと思って見たものではない。むしろ、勝手に目に入ってきてしまったものである。

考えてみると、大規模なスポーツイベントは、資本主義社会の変化を明確に表すもののようだ。自分は子供の頃からF1が好きだったのだが、当時のF1は主にヨーロッパのスポーツであった。スポンサーはタバコメーカーが多くを占めていた。
しかし、今日ではヨーロッパ開催のグランプリは全19戦のうちわずか9しかない。かつてヨーロッパ外のF1は、アメリカ、オーストラリア、カナダ、ブラジル、メキシコ、日本、南アくらいだった頃と比べると大きな違いである。
勿論、これ自体はテレビを通さずにも知ることが出来る情報だが、定点観測をするポイントを見つけるのはインターネット上の情報だけでは難しいかもしれない。そして、自分がF1に興味をもったのもフジテレビが散々プロモーションをしていたし、NHKのニュースですら日本GPの結果を流していたからであって、自分から求めたものではなかった。

インターネットがまだなかった頃は、自分で入ってくる情報を選択することはできなかった。そういう意味での不自由を抱えていたのは事実であろう。
だが、インターネットが出てきて、2000年頃からはブロードバンドが当たり前になり、今ではスマートフォンで常時SNSなどを通じてネットに繋がる社会になった。そして、Googleなどのサービスはよりカスタマイズの度合いを深め、自分が興味のある情報だけを運んできてくれる。ことによって、我々は新たな不自由の中にいるのではないだろうか。

それは一言で言えば、自分の世界を狭いものにすることが簡単になってしまって、そこから抜け出す糸口を失ったことによる不自由である。
そのように考えると、ラジオやテレビといった、かつて私たちに不自由をもたらした存在だったものがもたらす自分の世界の外側への糸口が、愛おしくすら思えてさえ思えてくるのだから不思議なものである。

Comments