昨日の夜寝る前にテレビをチラッと見たら、戦争映画らしきものをやっていたのだが、なぜかグイグイ引きこまれて遅くまで観てしまった。最後のシーンが終わったあとは、茫然として何も言葉が出ない程の衝撃だった。
スターリンが捕虜のポーランド軍将校1万数千人を一気に虐殺した事件(カティンの森事件)を取り上げた作品で、その名も『カティンの森』である。2007年のポーランド映画である。
虐殺の事実、それ自体だけでも十分に残虐で恐ろしいのだが、それをさらに恐ろしくさせるのは人間の他者の残酷さに対する共感の喪失である。
カティンの森事件は、スターリンがポーランドを戦後に共産主義属国化を行う上で邪魔な人間を抹殺することを目的に実施されたものだ。
映画最終盤のソ連兵によって冷徹に、デジャビューが何度も繰り返されるように淡々と、機械じかけに殺されていくポーランド将校の処刑のシーンは、心の底から戦慄を覚えた。
しかし、この映画の特徴は、殺戮の残虐さを見せつけるところにあるのではないように思う。
ポーランドが戦後、ソ連に服属するために、言論を圧殺し、この事件を起こしたのはナチス・ドイツだと国民を洗脳し、従わない場合は粛清を図っていく点が描かれているのが大きな特徴だ。
家族の墓碑に「ソ連によって殺された」と書いたことで取り調べを受け殺される人物が、「教えて。私はどこの国にいるの?」と述べたセリフは、この映画を通底する重要なメッセージだ。
そこからわかることは、我々が他者の残酷さに対する共感をやめることこそが、我々の社会を暗黒へと転落させるということであろう。それは、スターリンであり、ヒトラーであり、殺戮するソ連兵であり、ポーランドの傀儡政権の人々である。
だが、それは一見関係のないように見える我々にとっても同じことだ。他者の痛みへの共感は簡単に喪失できる。いくらでも「あの時はこうだったから」と説明はできるし、正当化もできる(もちろん、そのことを語る者の痛みへの共感も忘れてはならない)。その限りにおいて我々は何も変わらなくて良いが、他者の残酷さは残される。
自らが他者の痛みを受け入れることは、それとの間での葛藤を余儀なくされ、そこには常に痛みが伴うものだ。だが、だからこそ、社会の正義は常に批判的に刷新されていくはずだ。
この映画は、人間の温かさは殆ど描かれていないし、家族の愛のようなものも殆ど出てこない。流れるのは悲惨で陰鬱な時間だけで、全く救いのない映画のようだが、よくよく振り返ればそこには多くの救いがあるようにも思う。
虐殺のシーンでは、ポーランドの作曲家であるクシシュトフ・ペンデレツキの「ヤコブの夢」が背景に流れている。「ヤコブの夢」とは、罪からの赦しをテーマにした聖書のエピソードである。人間の犯す過ちは果てしないが、しかし、それを見つめることで、痛みを少しでも受け入れ、何かを我々がこの世界に創りだそうという意志も感じられるのではないだろうか。
また、この映画が制作されたことは、少なくともこの虐殺の痛みを受け入れる準備が我々にできるようになったことを意味するとも言える。それは多くの痛みを通じて、我々が何かを学ぼうとしていると考えて良いのかもしれない。そうしてみると、この映画には逆説的に大きな救いを残しているようにも思う。
スターリンが捕虜のポーランド軍将校1万数千人を一気に虐殺した事件(カティンの森事件)を取り上げた作品で、その名も『カティンの森』である。2007年のポーランド映画である。
虐殺の事実、それ自体だけでも十分に残虐で恐ろしいのだが、それをさらに恐ろしくさせるのは人間の他者の残酷さに対する共感の喪失である。
カティンの森事件は、スターリンがポーランドを戦後に共産主義属国化を行う上で邪魔な人間を抹殺することを目的に実施されたものだ。
映画最終盤のソ連兵によって冷徹に、デジャビューが何度も繰り返されるように淡々と、機械じかけに殺されていくポーランド将校の処刑のシーンは、心の底から戦慄を覚えた。
しかし、この映画の特徴は、殺戮の残虐さを見せつけるところにあるのではないように思う。
ポーランドが戦後、ソ連に服属するために、言論を圧殺し、この事件を起こしたのはナチス・ドイツだと国民を洗脳し、従わない場合は粛清を図っていく点が描かれているのが大きな特徴だ。
家族の墓碑に「ソ連によって殺された」と書いたことで取り調べを受け殺される人物が、「教えて。私はどこの国にいるの?」と述べたセリフは、この映画を通底する重要なメッセージだ。
そこからわかることは、我々が他者の残酷さに対する共感をやめることこそが、我々の社会を暗黒へと転落させるということであろう。それは、スターリンであり、ヒトラーであり、殺戮するソ連兵であり、ポーランドの傀儡政権の人々である。
だが、それは一見関係のないように見える我々にとっても同じことだ。他者の痛みへの共感は簡単に喪失できる。いくらでも「あの時はこうだったから」と説明はできるし、正当化もできる(もちろん、そのことを語る者の痛みへの共感も忘れてはならない)。その限りにおいて我々は何も変わらなくて良いが、他者の残酷さは残される。
自らが他者の痛みを受け入れることは、それとの間での葛藤を余儀なくされ、そこには常に痛みが伴うものだ。だが、だからこそ、社会の正義は常に批判的に刷新されていくはずだ。
この映画は、人間の温かさは殆ど描かれていないし、家族の愛のようなものも殆ど出てこない。流れるのは悲惨で陰鬱な時間だけで、全く救いのない映画のようだが、よくよく振り返ればそこには多くの救いがあるようにも思う。
虐殺のシーンでは、ポーランドの作曲家であるクシシュトフ・ペンデレツキの「ヤコブの夢」が背景に流れている。「ヤコブの夢」とは、罪からの赦しをテーマにした聖書のエピソードである。人間の犯す過ちは果てしないが、しかし、それを見つめることで、痛みを少しでも受け入れ、何かを我々がこの世界に創りだそうという意志も感じられるのではないだろうか。
また、この映画が制作されたことは、少なくともこの虐殺の痛みを受け入れる準備が我々にできるようになったことを意味するとも言える。それは多くの痛みを通じて、我々が何かを学ぼうとしていると考えて良いのかもしれない。そうしてみると、この映画には逆説的に大きな救いを残しているようにも思う。
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