言語システムとしての組織

 昨年の9月に経営哲学学会の統一論題で報告した内容を元に執筆した論文が刊行されました。
 タイトルは、
「言語システムとしての組織―ナラティヴ・アプローチの組織論研究に向けて―」
です(『経営哲学』第13巻、1号、18−30ページに掲載)。
 もしよろしければご一読下さい。(入手が困難な場合はご相談下さい。)


言語システム(Linguistic System)という聞き慣れない言葉は、アンダーソンとグーリシャン(Anderson and Goolishian)が1988年に臨床心理学の雑誌Family Process誌上に書いた論文(※1)からとってきたものです。
 言語システムとは、我々の理解を作り出す基本的な知識の体系のことです。例えば、モノが落ちる、という現象を「重力が作用した」と解釈する際には、我々はその現象に対して物理学の言語システムを当てはめていると言えます。しかし、例えば沢山ものを買う人に対して、「無駄遣いをする人だ」という場合は、社会的消費規範(仮称ですが)の言語システムが用いられ、一方、「買い物依存症だ」という場合は、精神医学の言語システムが用いられていると言えます。
 我々の世界は極めて多元的に解釈可能な世界なのであり、どのような言語システムを用いるのかによって、全く異なる世界に変わってしまうのです。アンダーソンとグーリシャンがここで述べたことは、我々の理解は言語システムから生じているのだから、言語システムを変えれば理解の内容は変わっていくということでした。

 では、アンダーソンとグーリシャンが、なぜこのようなことを述べたのでしょうか。
それまでのサイコセラピーの現場では、クライエントが語る言葉(クライアントの言語システムから生じてくる語り)がセラピストの専門的な知識体系(セラピストの言語システム)によって解釈されることによって成立していました。しかし、それは、ある意味でクライアントの語りは愚かで、セラピストは正しい、という権威主義的な価値観に基づいた実践だったのではないか、と彼らは指摘します。
 そのような権威主義的スタンスの結果、クライアントの語りは場合によっては取るに足らないものとして無視され、自らの困難を語りえないクライエントを生み出してしまっているのではないだろうか、そして、セラピストには見えないこうした問題を生じさせているのは、言語システムによるものではないかと彼らは喝破したのです。言語システムというのは、先に「用いる」と書きましたが、それは意識的に道具のように用いることは出来るものではありません。私たちは気が付かないうちに言語システムの中で生きていて、当たり前の考え方(だけでなく、所作や体感も含めて身体化されてすらいる)になっているので、それ自体を疑うことがとても難しくなっているのです。
 今まではある意味で、セラピストのモノローグとしてセラピーが成立し、結果クライエントもモノローグの中で生きざるを得なかったわけですが、ダイアローグをしてみてはどうか、というのが彼らの論文の趣旨になります。なぜならば、現在の言語システムが問題を生じさせているのであれば、その言語システム下で問題解決(problem solving)を図ることは、目先の問題の解決にはつながりますが、その外側で起きている問題に向き合うことを難しくさせてしまいます。であるならば、問題解決を超えて、問題を解消(problem dis-solving)させるような言語システムを探求することこそが、セラピーが本来的に目指すものであるはずだからです。

(なお、「外側の問題」とは、クライアントの語る問題の外側、というだけでなく、クライアントを「問題を抱えた人間」にしていくカウンセラー側の問題、という見えにくい問題をも含みます。)

 以上のような考え方は、組織をマネジメントする上でも、或いは研究する上でも有用ではないだろうか、というのが私の今回の論文です。なぜこのような論文を書いたのかというと、多くのビジネスパーソンからこのようなお話をよく耳にするからです。

・別な部署や上司に話が通じなくて困っている
・組織を変えたいのだが、そもそも皆、変わることに踏み切ろうとしない
・ずっと組織再編・組織のデザイン変更などの組織改革を行っているのだが、やればやるほど組織が悪くなっている気がする
・本社の言うことはズレていて、現地法人で思っていることが全然分かってもらえない
等々。

 このような問題の背景には、私は言語システムの違いやそれを埋めるような実践の問題があるのかもしれないと考えています。
 先のセラピストとクライエントのように、異なる言語システム同士ではいくら会話しても、それは実際にはモノローグが繰り返されているだけで、お互いの言語システムに会話の内容が入って行きません。やるべきはダイアローグ(対話)なのですが、実際には、どちらが正しい、という争いに終始してしまう、というか、権限のある方が形の上では押し切り、現場はイヤイヤやったりやらなかったりする、というような結果になってしまいます。モノローグで会話が展開する典型的な例は、議論(ディスカッション)になりますが、これをダイアローグのモードに変えていく必要があるのです(Bohm, 1996)。

 そのためには、ナラティヴ・アプローチと呼ばれる、新しい実践が必要であろうと私は考えています。ナラティヴ・アプローチは、先の言語システムを刷新することで、可能性を探ろうとする実践のことです。
 先駆的な取り組みとしては、精神障害ケアの領域で有名な(そしてこのブログでもかつて紹介した)、「べてるの家」の実践が挙げられます。また、組織での実践については、Bate(2004)の研究が挙げられます(※2)。
 詳しくは、向谷地生良さんの著作(※3)や拙著の研究ノート(※4)をご参考にされてください。べてるの家では、精神医療の領域の言語システムを用いず、独自の言語システムを開拓してきました。例えば、精神医療の領域では、精神障害をもつ人は「患者」になりますが、べてるでは、「当事者」と呼び、自分の困難を研究する研究者になります。そして、自分の研究成果を共有するミーティングが頻繁に行われ、そこでは、様々に生じた問題から、可能性を探る取り組みを考え、実践していきます。つまり、旧来の精神医学では限界を感じた人々が、可能性を探求し、実践するために、新しい言語システムを作っていったのがべてるの家の実践だと見ることが出来ます。

 通常の企業組織の場合、問題が起きたことそれ自体を罰する組織もまだあるでしょうし、良いところでも、もしかすると問題に対して次に問題を起こさないようにするための対策を講じる、というところが多いのではないでしょうか。
 しかし、それは問題解決(problem solving)であって問題解消(problem dis-solving)ではありません。問題が問題として成立している言語システムを見直し、それを変えるような取り組みをすると、眼前の「問題」によって蓋をされて見えなかった、もっと大きな問題、いや、もっと良くする可能性が見えてくるかもしれません。
 もちろん、お客さんが怒っている状況下では、まずは問題解決を図ることが大事ですが、同時に問題解消のための新しい言語システムの開発の取り組みも必要なのではないでしょうか。問題解決を迫る側の問題も含めて、素直に語れる状況をどうやって作っていくのか、というのは今後の私の研究・実践のテーマのひとつです。

※1 Anderson, H. and H. Goolishian 1988. Human System as Linguistic System: Preliminary and Evolving Ideas about the Implications for Clinical Theory. Family Process, 27(4): 371-393(野村直樹 2014.『協働するナラティヴ』遠見書房に翻訳収録)
※2 Bate, P. 2004. The Role of Stories and Storytelling in Organisational Change Efforts: A Field Study of an Emerging “community of practice” within the UK National Health Service. in B. Hurwitz, T. Greenhalgh, & V. Skultans (Eds.) Narrative research in health and illness (pp.325-348). Malden, USA: Blackwell.
※3 例えば、向谷地生良 2009. 『技法以前―べてるの家のつくりかた―』医学書院、浦河べてるの家 2002.『べてるの家の「非」援助論―そのままでいいと思えるための25章―』医学書院などが参考になります。
※4 宇田川元一 2016. 「「変わっていく組織」の研究序説」『西南学院大学商学論集』第62巻、第3・4合併号、373-387.

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