佐藤学(2000)『学びから逃走する子どもたち』岩波書店 を読みました。

佐藤学さんの本を読みたいと思っていたが、なかなか読まずにいた。
しかし、このブックレットはせいぜい20分ほどもあれば読めるものだが、結構なインパクトがあった。

まず日本の子供は、世界でも屈指の「勉強をしない」子どもたちであるという事実を突きつけられる。勉強時間は非常に短い。それがどうして生じたのか、要するに、勉強をすることに意味が社会的に喪失され、勉強へのシニシズム・ニヒリズムが蔓延した結果だと指摘する。すなわち、これは単なる教育現場やその子どもの問題というよりも、社会的な問題である。

しかし、そうした大きな時代の転換による変化への対応が、教育政策の時代錯誤かつ事実誤認に基づく政策に終始し、結果、教師や生徒、親などの個人の責任へと転嫁されていて、学ぶことの意義・意味が問われないまま放置されている。

その上で、勉強から学びへの転換を訴え、学びとはその意味を探求する場である必要があり、今学んでいることが、一体何の意味を持ってくるのか、そうしたことに触れる対話としての学びへの転換を訴える。自分はひとまずは大きな違和感なく彼の主張に共感した。 

面白かったのは、ある底辺校の高校で、それまでの成績がオール1だった生徒に学力試験を実施したところ、実際には結構高い学力がある、というエピソードだ。教師はみな、学力は「小学校3・4年程度だろう」と思っていたが、そうではなかった。その結果について、佐藤氏は、より高次元な学習に触れることで、それ以前の学習が回復されたからだと述べている。

つまり、生徒たちは難しいことをなんとか理解しようとするので、それまでの学年で学んできたであろうことを自分なりに振り返って理解していったのだ、ということだ。学習とは積上げではなく、機能的に行われる、というのが佐藤氏の主張である。
必要性の実感や理解したいと思うところがあってこそ学習へとつながり、そうしたことを教える側が無視してきた結果が彼らが前の学校ではオール1だったというわけだ。

そのように考えると、教育内容というのは、例えば私の立場ならば、学生の能力に合わせるようにレベルを下げて教えるようなことはあまり好ましくなく、むしろ、レベルは維持しつつ、それを理解させるように支援することのほうが妥当だと言えるだろう。

それと同時に、これを学ぶことで見えてくる世界になるべく触れさせる、ということが大事であり、それがなければ単に学びからの逃走が生じるだけだとも言える。

もちろん、企業の中での人材育成を考える上でも有用な視点であろう。出会う世界が学びを生み出す。理想や夢を言葉だけ掲げても意味が無いのは当然だが、しかし、理想も夢もない組織に学びはないのだ。

その組織の中での仕事観を実感しながら人は何かを学んでいく。何を「実施したか」、何を「考えたか」、ではなく何が学ばれたかの勝負なのだ。どこまで本気で取り組めるかがきっと大事なところなのだろう。

学びから逃走しているのは、子どもたちだけなのだろうか。

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